芭蕉句碑

Filed under: 川場村,文化財,譽ブログ(従業員日記) - タグ: @ 2009年8月19日 12:00 PM

~生品(なましな)~

 
生品の延命院を通り過ぎ、武尊神社に入る道の手前を左に曲がります。
芭蕉句碑
 
しばらく坂を下ると、田んぼ沿いに左にカーブするので、そこの右側です。
芭蕉句碑
 
今にも崩れそうな階段のすぐ左に建っています。
高さ230cm、幅85cm、奥行き65cm。
 芭蕉句碑
 
地元ではここを井戸岐(いどぎ)と呼んでいる場所である。
 
写真に見られるように、大きな自然石の句碑で文久元年(1861年)の建立になるものである。
書は宮田椿岱、発願は玉所、一峩、宗谷、桃猿、東儀の五人の俳人に、地元俳人の若者が補助したことは分かるが、風雨のため碑面が傷んで読みづらく判然しない。
碑文は「咲きみだす桃の中より初櫻」とあり、まさしくこの土地では桃の花ざかりに桜の花が咲き始めるので、このような詩が読まれたのであろう。
 
引用:川場村教育委員会発行「川場村の文化財」
 

芭蕉句碑

Share

庚申

Filed under: 伝承,川場村,文化財,譽ブログ(従業員日記) - タグ: , @ 2009年5月15日 12:00 PM

~昨日案内すれば良かった~

  

庚申

 
本日、かのえさる(庚申:こうしん)です。
約二ヶ月に一度の今日が、あの日です。
この写真を撮ってきてから思ったのですが、昨日この日記を書いていれば、今日皆さんも気付き、三戸のお世話にならなくてもすんだ人がいたかも知れませんね(笑)。
 
※三戸については、3月16日の日記をご覧下さい。
 
 

と言うことで、今日も庚申信仰についてのお話しです。
 
愛宕山の頂上には大きな岩がたくさん露出しているが、その岩面に庚申の文字がびっしりと彫り込んである。
と、川場村の文化財(川場村教育委員会発行)に書いてあり写真も載っているのですが、その岩はいくら探しても見つかりませんでした。
それでも、他にたくさんの庚申の文字がありましたので、一部ですが、ご紹介します。
 
庚申
 
庚申の信仰が発展して行く中、数の力でその功徳を得ようとする人間の知恵が百庚申の発生を見せるのであるが、岩に庚申の文字を彫る例は珍しい。(県内では太田に一ヶ所あるだけ)それぞれの書体が違う点から見て、何人もの人々がこれを刻んだようである。
 
庚申
 
三戸の虫に告げられては困る罪を何人も多少は犯しているもの。
これらの岩にそれを償う意味でこの文字を刻んだものであろう。
 
庚申
  
次のかのえさるは、7月14日。
皆さんも譽國光を片手に、昔の人のことを思いながら夜更かしされてみてはいかがですか…。
んんんん?三戸が動くのは、前の日からの夜か?、次の日にかけての夜か?どっちだ?
この件は、宿題と言うことで、もし分かれば、ご報告致します。
 
 
追伸、
実は、今日のかのえさるの事を気が付いたのが、一昨日なんです。またまたやりました。冴えてます!

Share

吉祥寺

Filed under: 川場村,文化財,譽ブログ(従業員日記) - タグ: , @ 2009年5月1日 12:00 PM

吉祥寺
    ~花寺です~
 
 
 
青竜山吉祥寺(きちじょうじ)。
 
いつも通りの詳しい解説を載せているととても長くなりますので、今日は簡単に場所の説明を致します。
 
譽國光を左に出ます。
 
すぐの三叉路を右に(川場スキー場への道)。
 
その先、三叉路のつきあたりが右真ん中の写真です。
 
その交差点のつきあたりを左です。
 
そのまま一本道を行きますと、右側に右下の看板が見えます。
 
そこが入口です。
 
入口の所でカーブが続き、ちょうど減速しますので分かりやすいと思います。
 
譽國光から2~3分です。

  
  
 
 
 
吉祥寺
 
吉祥寺
 
吉祥寺

Share

~桜はダブルです~

 

石幢六地蔵菩薩像

 
生前の罪により冥土で人間は六道(地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天上)を迷うと言われています。
善行を積んだものが行く修羅・人間・天上の三道、悪行を行ったものの行く地獄・飢餓・畜生の三悪道。
その六道で迷う者を救うとされるのが六地蔵様です。
来世を思う時、人は誰もが二世安楽を求める。
六地蔵像が寺院の山道に盛んに建立されたのは、救済を求める民衆の本心のあらわれと言える。
吉祥寺の六地蔵、富士山の二石に刻む六地蔵。村内にも六地蔵信仰の石仏を数カ所見る。
萩室の石幢に刻む六地蔵像は墓地の入口に建立されたもの。
※石幢(せきどう)とは、六角形または八角形の石柱に仏像や梵字などを刻んだ石塔のこと。
 
石幢六地蔵菩薩像
 
そして、写真を撮りに行ったついでに、譽國光の前の道を1kmほど南に下ったところにある、二種類の桜です。キレイですよ~!
川場の桜はちょうど見頃です!よかったら見に来て下さい。

Share

浅間神社

Filed under: 川場村,文化財,譽ブログ(従業員日記) - タグ: @ 2009年3月29日 12:00 PM

~ せんげんじんじゃ ~
 
浅間神社

 
浅間神社
浅間神社
 
祭神 貞享三年水帳に記載あり。
別当は光明院、内膳院、のち、福泉寺、正楽院、宝永元年建立の鳥居あり。
 
※水帳…江戸時代の土地台帳
※別当…神社に付属した寺
 
祭日 
六月十五日
 
縁起 
末社、神明宮、須賀神社、諏訪社(寛政七年創立)。
天狗様(文政四年合祀)。 
八幡大神、熊野大神(寛政十年)、地神石尊様、
金比羅大神、コウガサン大権現。
川場の郷の総鎮守と伝えられている。
 
※縁起…社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え、また、それを記した文献
※末社…本社に付属する小さな神社
※神明宮…伊勢信仰に由来する神社
 
富士山地区にある。
社地は東西53m、南北65mあり、徳川時代には富士の森と称して37,750坪にも及ぶ広大な山林を所有していた。
由緒によれば、大日坊京仙権大僧都が、駿河の富士山より土を持ち帰りこれを納めて社屋を建てたと言われ、本尊は同僧都作の大日尊である。
湯原等十ヶ村の総鎮守であり、氏子総数二千二百人とある。
 
山懐に鎮座して、いかにも神さびている。
石段を上がってすぐ拝殿となる。
本殿は一間社流造で覆堂の中にあり、海老虹梁の反りは強く、蟇股、虹梁に見られる唐草模様、木鼻等からして江戸中期の造りと思われる。
向拝の柱は唐戸面、本伝の柱は丸く仕上げ、正面の扉は棧唐戸にしてある。
木立に覆われた所で鞘堂の中に鎮座ましますこの本殿は、けやきの木目をうまく現している。
彫刻は質素であるが、神々しい造りである。
 
※覆堂(おおいどう)・鞘堂(さやどう)…建物を保護するため、その外側にそっくりおおうように建てた堂。
※貞享(じょうきょう)3年…1686年
 寛政7年…1795年
 寛政10年…1798年
 文政4年…1821年
 
浅間神社

Share

二十一夜

Filed under: 伝承,川場村,文化財,譽ブログ(従業員日記) - タグ: , @ 2009年3月17日 12:00 PM

~連日寝られません~

 
二十一夜
昨日は庚申で寝られない夜を過ごしました。
そして、本日は二十一夜で、女性にとっては大切な夜です。
今日の月の出が、このあたりでは24時30頃とのことですので、女性は二日連続で寝られないということになります。
重なってしまった場合には、一体どちらを優先していたのでしょうか…。
 
文字碑の月待塔も相当数建てられ、石仏群の一角には必ず一基や二基それを見ることが出来る。
二十一夜塔がその中でも一番多いようで、女性の講が盛んだったことが分かる。
写真の月待塔は新井の旧道に見られるものであるが…実は、昨日の庚申塔の裏側にありました。
昨日は、庚申塔がやっとのことで見つかったので嬉しくて周りは見ませんでしたが、これを読んで「もしかして」と思って行って見たら、案の定、すぐ後ろにありました。
…二十一夜塔と思われる。
 
二十一夜
変わった書体で最初何の塔か読めずにいたが、よく見ると二十一夜塔である。
※分かりやすくするために加工してみました。
峻和敬書と銘が入っているが、他にこの形式を見たことがなく、峻和という書家の存在もはっきりしない。

Share

庚申塔

Filed under: 伝承,川場村,文化財,譽ブログ(従業員日記) - タグ: @ 2009年3月16日 12:00 PM

~ 私、丙午の学年でございます ~

 
庚申塔
庚申とは、かのえさるの日、またそれにあたる年で、甲乙丙の十干と子丑寅の十二支の組み合わせである。
約二ヶ月に一度、年に六回程度庚申の日があり、六十年ごとにその年がやってくる。
本日、三月十六日がその「かのえさる」にあたる。
庚申信仰の思想とは道教より発したと言われ、人の身体の中に三戸という虫がいて、六十日ごとにやってくる庚申の夜、体内より抜け出し、天に登り、その人の日頃の罪を天帝に告げる。
天帝はその報告を基にしてその人間の生命の長短を決めたり、天罰を下したりするという。
三戸の虫の報告を止めるために、人々は庚申の夜は眠らずに一夜を明かす。
それが、多くの人で講をつくり、にぎやかに夜の明けるのを待つようになっていった。
その講中で造り出したのが庚申塔である。
形式としては数々あるが、文字による庚申と青面金剛像を主尊とした庚申が一般には多く造立されている。
刻んだ青面金剛王様を主尊とした庚申塔をいたる所で目にする。

※谷地新井の旧道の所に立つ像。
元禄期の造立で、右は、二鶏と青面金剛様の神使で、見ざる・聞かざる・言わざるの三猿。
左は、二鶏と二猿で、両方とも堂々とした主尊を備えた重厚な像刻塔である。
 
庚申塔 庚申塔

Share

Filed under: 川場村,文化財,譽ブログ(従業員日記) - タグ: , @ 2009年3月15日 12:00 PM

~ こんなところにも ~

 

行年八十歳法眼探雲筆

 
武尊神社の天井画。
「行年八十歳法眼探雲筆」の落款があります。
 
天井いっぱいに墨色をみなぎらせた狩野探雲晩年の力作です。
ただ、描かれた場所の制約上、画面はかなり荒れています。
 
作者:狩野探雲(かのうたんうん)
群馬県甘楽郡野上村(現富岡市野上)の出身。
狩野探林の弟子として修学。幕府画所(えどころ)で15
人扶持(ぶち)をうけ、江戸城西の丸普請の際、その障壁画等の製作に従事しました。
後に七日市藩の御用絵師として勤めましたが、文化九年(1812年)五月に88歳でなくなっています。
 
狩野派
日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期から江戸時代末期まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団。
室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結
び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。
(引用:Wikipedia)

Share

Filed under: 川場村,文化財,譽ブログ(従業員日記) - タグ: , @ 2009年3月14日 12:00 PM

~ こんなところに ~
 
龍・向拝
 
龍・向拝

 
 
武尊神社の向拝に、二体の龍がいます。
しばらく見ていましたが、見飽きるどころか、いつの間にか元の色が見えてくるような、そんな錯覚におちいってきました。
 
 
※川場村教育委員会発行、川場村の文化財に載っている解説です。
 
武尊神社の建築は、神社建築としてもたいへん優れた遺構で、とくに地方色が濃い。
その外観は他ではあまり見られないものである。
なかでも社殿の外部および内部にほどこされた装飾の木彫は抜群のものがある。
向拝の虹梁にからみつくように彫られた龍の彫刻は、単に建築装飾という枠をこえ、彫刻そのものとしてみても価値は高い。
もとは極彩色がほどこされていたらしく、風雪にさらされ褪色しているが、龍の迫力は少しも衰えず、今なお霊妙な威厳をそなえている。

Share

虚空蔵堂

Filed under: 伝承,川場村,文化財,譽ブログ(従業員日記) - タグ: @ 2009年3月5日 12:00 PM

~ 昨日の続き ~

虚空蔵堂
いや~見事に溶けましたねぇ。これは今朝9時頃です。
もう少し残るかと思いましたが、暖かいです。
そして、今日はまた虚空蔵さんへ行ってきたので、少し長くなりますが、清岸院虚空蔵堂のご紹介もしてみます。

譽國光の前の道を南に。
田園プラザから約800mを右折です。
虚空蔵堂

この交差点は、譽國光側から向かった写真で、南向きに撮っています。

ここの左角が公民館で、反対に左折すると、白沢を通って国道120号線日光方面へ抜けられる近道です。

虚空蔵堂
↑虚空蔵堂への入口です。なんとなく山登りといった感覚。

その先の↓階段は四百五十六段です。階段慣れした方(どんな人?)でもキツイと思いますよ。
 
虚空蔵堂能満山清岸院

宗派 曹洞宗
沼田市舒(じょ)林寺末

本山 永平寺 鶴見総持寺

本尊 能満虚空蔵大菩薩

草創 天長四庚申年三月
天保十一年二月焼失す。

虚空蔵堂
清岸院の持である。

本尊 能満虚空蔵大菩薩

虚空蔵堂

由緒 平安時代の初期天長四年(827年)の創始と伝えられる。
その後、堂はなくなったものか永禄三庚申年(1560年)三月建立と言われる。
なお、承応二年(1653年)真田内記信正の家臣、鎌倉重継の発願により、沼田城の鬼門除けとして改築された。
元来、虚空蔵山が宗教と結びついた端緒は山岳宗教であろう。
山頂に十数㍍の巨岩があり、本尊の虚空蔵菩薩は、空海上人が刻んだと伝えられている。
この堂は、地元の立岩地区ばかりではなく付近の村々の住民からも尊崇され、利根郡内でも著名な堂の一つである。
また、ウナギは虚空蔵菩薩の御眷族(ごけんぞく…神の使い)と信じて、今でも捕らえることはもちろん、食べることもしない人もいる。
 
清岸院の左、杉木立の中を通り、少し登ると石段にかかる。
参道の石段四五六段は、天明五年(1785年)に着工、寛政九年(1797年)に完成した。堂の虚空蔵菩薩を中心とした十三佛のうち、十二佛尊像が石段左右に安置されている。
 
※十二佛尊像は、また後日、ご案内致します。
本堂は宝形造りで正面に唐破風の向拝をつけている。
もとは茅葺き屋根であろう。今は銅板葺きで軒が長く二重繁垂木で、柱は丸柱とし、一面四本建である。桁の彫刻蟇股(かえるまた)の造りから見ると江戸初期頃の造りであろう。本堂と向拝の建築の年代に風化に違いがあるので、向拝は後補の可能性がある。
出組、唐草文様、木鼻からみて江戸中期の後補であろう。

Share
古い記事へ »