~いらっしゃいました~
先日5月26日の仏足石(ぶっそくせき)の時にお伝えした、昨年6月25日の桂昌寺の日記を今のホームページ用に加工していた時、あることに気が付きました。
そうです。昨年の3月9日に探しに行って出逢えなかった石仏様と同じ種類の石仏様がいらっしゃるではありませんか!
これはビックリ!と言うか、何で気が付かなかったんだろう・・・
あわてて現物を見てきました。
こちらが「御幣をもった道祖神(どうそじん)様」です。

道祖神とは、村の入口にたたずみ、外部から侵入する悪疫・邪神を防ぎ、村人の平和を願う神様です。
その中でも、ここ川場村にしかないと言われているのが、この御幣をかついだ道祖神碑。
この御幣は、アーボ(粟【あわ】穂)ヒーボ(稗【ひえ】穂)幣と呼ばれ、五穀豊穣を願い農作物を図案化した物であると言われています。
3月9日あの日以来、ずっと探し続けていた物とは異なる物ではありますが、同じ御幣をかつぐ道祖神様にやっと出逢えました。
でも、目的の道祖神様捜しはまだまだ続きます。
ご紹介出来る日が来ることを祈りつつ・・・
~久しぶりに川場村ネタです~

昨日、たまたま川場村の観光ガイドブックを見ていたら、どこかで見たとても気になっていた物が出ていました。
その名も仏足石(ぶっそくせき)。
名前の通り、仏の足の石なのです。
これがあるのが、6月25日にご紹介した桂昌寺。
(今現在、過去の日記なのでUPできていませんが、近日中に取り急ぎ、この日だけUPしようと思っています。しばらくお待ち下さい。)
このお寺にあって、前から「なんだろう」と気になっていたのです。
仏足石とは、お釈迦様の足の裏の相なんです。
その昔、お釈迦様が人々の前で説法をされた時、多くの人々に自分の姿が見えるように、岩や石の上に立ってお話しをされていたそうです。
そして、説法が終わり、お釈迦様がお帰りになった後も石の上に足の相が残っていて、人々はその足跡をそのまま石に刻み、ありがたく拝んできた…。
そうです!今の仏像と同じなんです。
パッと見た感じ、足ということは分かりますが、仏像と同じだとは思いませんでした。
とてもありがたい、ありがたい足の裏だったのです…。
お勉強になりました。。。
~すぐ近くです。~
譽國光の前の道を南に下っていくと、すぐに少しだけ道がジグザグになる所があります。
そのジグザグのすぐ先を右折します。
すると、右側に小さな石仏様が出てくるので、そのすぐ先が入口です。



万松山桂昌寺
宗派 臨済宗建長寺派
本山 建長寺
本尊 延命地蔵尊
開山 万像機一和尚
由緒 大友館跡の西北隅にある。
同寺は火災にあっていて古い記録は失われている。
境内に八幡宮あり。
※大友館については、現在調査中です。
多分ですが、14世紀頃のとてもとても広い館で、周りを石垣で囲んでいた様なのですが、またの機会に…。
当寺は正面七間、側面六間半の寄棟造り。
上段の間、内陣の床高は同じであり、内法長押上部を白壁としているが廊下と内陣境の欄間だけ天人の透かし彫りである。
内陣格天井には檀家の寄せ書きらしく、各一枚ごとに寄付者の名が書き込まれた書・絵・句の珍しいものである。
須弥壇などは簡素な造りであるので、古き遺構に見えるが、これは江戸時代末期の建築である。
庫裡は五間、七間の前面破風入母屋、裏側寄棟造りの立派な建物であるが、これも本堂と同年の建造であろう。
寺社の説明を書いていていつも思うのが、はたして何人の方がこの内容を理解出来ているのか?と言うことです。
正直、私も分からないことがほとんどでした。
そこで、今回から、出来る限りの解説をつけようと思っています。
分かる範囲で申し訳ございませんが、少しでもお助けになれば幸いです。
◎寄棟(よせむね)
建築の屋根の形式の一つ。四方向に傾斜する屋根面を持つもの。
◎上段の間(じょうだんのま)
床を他の部屋より一段高くした部屋。また、部屋の一部を他より高くした場所。床の間・違い棚・付け書院が設けられ、高貴な人の座所とされた。
◎内陣(ないじん)
寺院の本堂内部において本尊を安置する場所。
◎内法長押(うちのりなげし)
鴨居の上や敷居の下などの側面に取り付けた、柱と柱の間をつなぐ横材。
◎鴨居(かもい)
障子・襖(ふすま)などの建具をはめる開口部の上に渡す溝付きの横木。
◎格天井(ごうてんじょう)
角材(格縁(ごうぶち))を格子に組んで裏に板を張った天井。組み入れ天井とは異なり、梁(はり)からつるして支える。
◎須弥壇(しゅみだん)
仏堂内で、仏像を安置する台。須弥山をかたどったものといわれ、四角・八角・円形などの形のものがある。
◎庫裡(くり)
住職や家族の住む所。
◎破風(はふ)
屋根の切妻にある合掌形の装飾板。また、それに囲まれた三角形の所。
◎切妻(きりづま)
屋根の形式の一つ。棟の両側に流れる二つの斜面からできている山形の屋根。
◎入母屋(いりもや)
建築の屋根の形式の一つ。屋根の上方は切妻造り、下方は寄棟造りのように四方に庇(ひさし)を葺(ふ)きおろすもの。

~いらっしゃいませんでした~
今日は少し珍しい道祖神様をご紹介しようと探しに出たのですが、結局、いらっしゃいませんでした。
色々と情報を集めて行ったのですが、全く分かりません。
仕方がないので、そこら辺をしらみつぶしに見回っては探してみたのですが、それでもいらっしゃいません。
残念!!なんて、またいつかのように思っていたら、またお猿さんがいました。
困った時のお猿さん頼みのようになってしまいますが、こんなのでごめんなさい。
肝心の道祖神様は、もしかしたらどこかに移されてしまい、ここにはもういらっしゃらないのかも知れません。
でも、まだ色々と情報は集めていますので、またの機会にご紹介できることを祈っております。
愛宕山の前方、路地を少し入ったところに立つ西向きの道祖神、村内で一番大きい道祖神像である。
酒器を持つ男女が上品に浮き彫りにされ、どことなく雰囲気が良く美しい。
群馬の道祖神、特に北毛には供養仏と間違えそうな小さな双神道祖神が多く、信州安雲野周辺の優雅で華麗な像に比べ見劣りしがちであるが(もちろん、上州特有の素朴な味わいのある多種多様な像は信州の道祖神に負けない良さを持っている)これはまさに信州風の道祖神である。
村の入口にたたずみ、外部から侵入する悪疫・邪神を防ぎ、村人の平和を願う道祖神碑。
風化に耐えながらも永久にこの位置でたたずんでいて欲しいものである。
※この道祖神様には、おもしろい言い伝えがあります。その話しを聞くと、この像がどれくらいの大きさ
なのか見てみたくなるのですが、その話しはまたの機会に…。
~ 延命院-その2 ~
無縫塔と同じ延命院の高台に二体のどっしりとした丸彫りの石仏が並んでいます。


右手前の像は庚申の閻魔王像、左の方が亡者を浄土の世界へ導いてくれるという阿弥陀如来像です。
閻魔王様は、また後日、ご紹介いたします。

死後、極楽浄土へと願うは万人の切なる願いであり、「南無阿弥陀仏」と唱える事によって極楽浄土への希望が叶うとする浄土宗が、一般の庶民の間に深く入り込んだ背景にこの如来様の持つ功徳によるものがある。
弥陀定印の印相、螺髪(らはつ:仏像のちぢれた髪型)、白毫(びゃくごう:仏の額にあって光を放ちすべてを照らすといわれるもの)、衲衣(のうえ)、儀軌にそった像容は崇高な心霊を秘めて座す。
今から三百年程も以前、村の人々はこの像に、極楽浄土への願いをたくしたのであろう。
※無縫塔(むほうとう)とは、主に僧侶の墓塔として使われる卵形の石塔のこと。

カメラを持つ手がとても痛い、本当に北風が強かった延命院の高台からは、戸神山(左側:通称「三角山」)と三峰山が奇麗に見えていました。
手前は、桜でしょうか?桜のシーズンが待ち遠しいこの日この頃です。
~浅間山を仰ぐ~
譽國光の前の道を南に行くと、大きなお地蔵さんが、のんびりと西を仰いで立っておられます。
台座の所には願いの叶った人があげた小石が、びっしりとあがっています。
総高 410㌢ 像高 150㌢
女人泰産、身根具足、除衆疾病、寿命長延、聡明智慧、財宝盈溢、衆人愛敬、穀米成熟、神明加護、証大菩提の十種もの福徳があるといわれるお地蔵さんは、多くの人々から親しまれ信仰されてきた。
延命、子育、火除け、とげ抜き等の各地蔵。人間の苦しみ悲しみを大地のような広々とした心で救ってくれる。
地蔵菩薩ほど庶民の身近な仏はない。
この地蔵さんにも、足の痛い人、手の具合の悪い人、子供を亡くした人、色んな願いが託されている。
すらっとした像は信州伊奈郡・儀左衛門という石工の作品である。
~色んなものがありますよ~
あまり大きくない寺院ですが、何回かに分けないと書ききれないすごさです。

譽國光から約5.3km。
兜滝を通り過ぎてすぐです。
この交差点は、譽國光側から向かった写真で、南向きに撮っています。
この交差点のすぐそばから見た武尊山です。

今日も良い天気です。

すぐ右の高台も延命院さんです。


高源山延命院
宗派 天台宗
世良田長楽寺末
本山 比叡山延暦寺
本尊 阿弥陀如来
開山 良忍上人
(西光寺)
由緒
良忍上人が平安朝末期に西光寺を建立したのが本寺の前身である。
延命院は正和三年中興、僧弁清が再建する。
天保十五年七月七日焼失、嘉永二年再建。
現在、弁清の墓、板碑、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔等を存す。
東方の山の上に天満宮がある。縁起不詳。
三月十五日が祭日であるが、戦後しばらくの後まで子供たちが仮小屋をつくり杉の葉で覆ってその中泊まった。
くじをつくり、身近な木・竹を利用し、加工した玩具の日用品などをつくり賞品とした。
当寺の正面間口は八間・側面七間・寄棟茅葺(以前)・箱棟付造りで、外部の柱上組は正面並に側面を平三斗にし、その他を舟肘木にしている。
内陣天井は格天井であるが、他寺にくらべ簡素な建造である。
明治初年、当寺は村の小学校の発祥の場所とのこと。
本堂右の坂を登りて小高き所に天満宮が鎮座している。
当寺境内には石仏の古き物が数多くある。

最近、どこに行っても気になるのが石仏様。意外と色んな所にあります。
でも、知識がついてこないのがさみしい限りです。
もっと色んなことを知っていたら、この石仏様ももっともっと楽しく見られるんだろうなぁと思います。
もっと勉強しなくっちゃ。。。
~弁財天様が分かりませんでした~
岩面に刻みつけた仏像を磨崖仏と呼んでいる。
打越の岩観音と呼ばれる三十三観音(他に一弁財天あり)は
群馬を代表する磨崖仏群である。
南北朝の戦乱で戦死した戦没将兵の供養のために秩父三十四
札所にならって刻まれた。
六十㌢ほどの立像・坐像観音像が三十三体、弁財天が一体浮
き彫りされている。
岩肌がだいぶ風化して像のいたみも激しい。
彩色されていたと思われ所々緑や赤の色が残っている。当初
は壮麗な観音群であったと思われる。
秩父三拾四箇所と彫られた左右に「宝永辛卯」「三月十八日」と
あり、宝永八年(一七一一年:正徳元年になる)造立。信州石
工源七の文字も見える。
岩の上に寛保三年新田郡脇屋村の良円による回国供養塔があ
る。大友一族及び新田氏の戦没将兵の菩提を弔うために、新田
方の末裔良円が供養のために建立したものであろう。
※勉強不足のため、弁財天様が分かりませんでした。
申し訳ございません。
また時間を見つけて、弁財天様を写真に納めてまいります。
今しばらく、お待ち下さいませ。










